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 地名の由来とみられる菅野氏は、940年に平将門の乱を平定するため、京都からはるばる関東に遣わされ、この市川の地に居を定めた。
 そして乱平定後は現在の御代院(京成リブレ隣)に住み、戦闘で死んだ人々の供養をして暮らしたといわれている。
御代の院(菅野2)
(3)  菅 野

                              


                              

                                   
















 菅野一丁目

                         

                                路地への入り口(菅野1)

 本八幡にも近い、静かな緑の多い住宅街である。大半の道は、道路となってしまった。
それでも、しばらく歩いてみると、まとまった路地があちこちに顔をのぞかせている。



 <静かにつづく路地>

   

 車が通らないのでゆったりと歩く    ゆるやかなカーブの奥に路地がある   住宅地の奥に残された路地の静けさ




 <生垣と板塀の路地>
    

 菅野一丁目のとある路地入り口      その先の幹が二股に分かれた松    少し歩くと竹垣と生垣の路地がある


        

   生垣のある路地の近くに農家を思わせる家がある          路地に残されている歴史を感じさせる板塀




 <木とコンクリートの旧式防犯灯・13号と16号のある路地>


           

いまは珍しい木の防犯灯・第13号       トタンの塀            木の塀がある路地の奥にあの旧式防犯灯が立っている

                       

      新しい電柱に陰に防犯灯・第16号             (今来た道を振り返る、防犯灯は電柱の後ろ)     


          

    防犯灯脇の路地のどっしりとした構えの家                 真新しい木の塀




 菅野二丁目

菅野二丁目は京成菅野駅を中心とする路地の多い住宅地である。作家の永井荷風も住んだ、この地は今でも当時の静けさを残している。
また黒松は昔、この地が砂洲だったころの名残で、市川市の景観のシンボルともなっている。しかしその保存は一筋縄ではいかない。

                       

                       黒松に接している邸宅(保存の限界はどこに)

<黒松と生垣が続く路地>
     

 道路の中に残る土蔵のある路地の面影    その近くに生垣と黒松のある路地     苔むした板塀の続く坂道


         
 
    戦前からの古い住宅とその生垣、かってあった八軒の借家の一部が残され、家人は生垣の手入れに余念がない


         
                      
               菅野駅にほど近い路地の生垣、秋の陽を浴びて紅葉が輝いている


          

   黒松が塀にかかると、塀も松も苦労する。隙間ができないようにぴったりと造ると、あとで塀が傾いたり、松が枯れたりする


               

        黒松が続く路地                      木々を残しながらつづく塀のある元路地




 <路地の出会う広場と古いアパート>
  

  菅野駅近くの路地の出会う広場          路地の奥が二つに分かれている      右の道は路地につながっている

     

路地の広場にある車の通れない踏み切り   近くのお屋敷の一角にあるアパート(06年)  その玄関から見えるステンドグラス




 <菅野停留所設置記念碑>

菅野駅は特に商店街も無く、黒松の生い茂る住宅街の中にある静かな駅である。しかしこの駅が出来るまでには、地元の強い運動があったようだ。

  

  高架になっている菅野駅           駅舎から本八幡方面を眺める           清潔な改札口付近


                       

      菅野駅前の、誘致功労者の顕彰碑         「菅野停留所設置記念」碑      その側面に「西平田市川新田道」



 菅野三丁目

国府台女子学園近くの見るからにそれと分かる狭い道を入ると、そこは菅野3丁目で、細い道が京成菅野駅の方に続いている。

 <静かなお屋敷町>

 
  

 国府台女子学院近くの路地への入り口    黒松の大木ある路地              道路の奥の静かな住宅街




 菅野四丁目
 
菅野四丁目は京成の駅からみると少し離れているのどかな地域で、開発された時期も昭和30年代からで、路地といえるものはほとんど見当たらない。

 <ところどころに残る路地>
         

 真ん中の建物を含む左側が四丁目         少し路地の雰囲気が残る狭い道       多くはこのような直線道路


      

  菅野四丁目の所々に残る農地            わき道の入口の車止め、       道の奥から伸びている通路(路地?)




 菅野五丁目


 菅野五丁目は北は真間川に接し、菅野の中でも一番駅から遠い地域で、つい最近まで農地が広がっていた。
今は東京歯科大学市川総合病院や大企業の社宅、業者の開発した住宅地が立ち並んでいる。


 <銭湯と人のいない公園>
      

 病院ん脇にある「かいどう公園」          この地域の中心「月の湯」全景     下から見上げると圧倒される煙突



 <病院脇の路地>
  

   大学病院脇の路地入口           片側は生け垣の静かな路地、      さらにその先に細い路地が残されている




 菅野六丁目

菅野六丁目はいちかわ文学の道から須和田橋にいたる地域で府中橋を中心に真間川に接している。駅まで歩いて通うには少し遠い距離である。

 <文学の道近くの路地の面影>
  

 文学の道に接する元路地              元路地入り口にある古くからの家        塀のくぼみに植えられた木



 <路地は見つからないが>

    

 車の通れない道路           歩行者用の橋(これも路地の一種というべきか、スロープは路地の雰囲気)


                          

                      菅野小学校裏手の元せんべい屋さんとその周りの路地(2006年)


今はやっていないが、戦後まもなくこの地で開業し、一時はそのおいしさにひかれて遠方から買いにくる人でにぎわったという。
開業当時はこのあたりは葦などが生い茂り、今ある小学校の場所も近くの工場の畑だったそうだ。
その当時の面影はこの元せんべい屋さんの建物を取り巻く砂利道にしのぶことができる。



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