<目次>
(1)心地よい路地の条件
(2)市川市の路地の成り立ち
(3)土管を積み上げた煙突の話
(4)黒松保存問題の根っ子
(5)常夜灯と防犯灯
(6)職人さんの仕事
(1) 心地良い路地の条件
路地を歩いていて、見た目も実際に歩いてみても心地良く、心が自然となごむような、うきうきするような路地に出会うことがある。
それはどんな路地なのだろうか。ふりかえって考えてみるといくつかのj共通点が思い浮かぶ。
1) 道幅は一間くらい
江戸時代は今のように車がなかったのだから、道が狭くても不便はなかった。旧東海道でもたいてい二間(.3.6メートル)である。
路地も一間(1.8メートル)ほどが車もとおらず、楽に人とすれちがえる、歩くのに適度な幅ではないだろうか。
このくらいの家の間隔であれば泥棒も簡単に入れそうもないし、人とのつながりも自然にめばえる。
以前、旧東海道を自転車で旅行した。興津というところで、昔、道路の拡張工事の計画が持ち上がったとき、古老がこぞって反対した、という話を聞いた。
町の人の多くは、それを年寄りのくりごとと一笑に付して広い道路をつくったが、出来てみると車がひっきりなしに通る道路のおかげで、もう以前のような近所つきあいはなくなり、人情もうすれてしまった、ということだった。
2) 塀が無いか低い生垣
ブロック塀でかこまれ、地震になったら押しつぶされそうな道は歩いていても気がめいる。
以前、三陸沿岸の町を歩いたが、塀もなく窓から明かりと楽しそうな話し声が聞こえてきて、こちらまで幸せな気分になったことがあった。
塀はあっても生垣であれば歩いていてもすがすがしい。
つまり、気軽に近所で声を掛け合えるような、親しみのある空間が路地の生活にはある。
3) 適度なカーブあるいは迷路
路地は生活の中で人々の譲り合いの心で培われてきたものだから、だいたい曲線や曲がり角をもっている。そのリズムが歩いていて心地良い。さらに歩く楽しみということから言えば、路地は迷路のようであればますます良い。じっさい真間の路地はいまだに迷路の面影を秘めている。それは路地が計画的ではなく、自然に生まれてきた何よりの証でもある。
4) できれば土の道
最近、道はほとんどがアスファルトで舗装されている。しかし土や砂利の道を見てほっとするのはなぜだろうか。
わたしが子供のころは身の周りの道はみんなそうだった、ということだけだろうか。ただそれでは雨の時など不便なので、敷石などは必要と思う。
自然の道は歩いていても足にやさしい。以前、外房で一面コンクリートで舗装した坂道を歩いたことがあった。
たまたま地元のお年寄りに話を聞いたら、道を舗装されて見栄えはよくなったが、歩くとひざが痛くなってもう前のように坂道を行き来できなくなったと寂しそうに話していた。
人の歩く道にアスファルトはほんとうに必要なのだろうか。せめて土がすこしでも残っていれば草がはえ、花も咲くのではないだろうか。
5) 通り抜けられること
道幅が適度で、下は土で、生垣が続いている。しかし、もしその路地が行き止まりなら、それは道としての路地ということはできない。
路地は他の道につながっていることによって、その生き生きとした道としての命を保っている。
あるとき、街中をすこし入ったところに砂利道の路地があったので、よく道が残っていますね、と地元のお年寄りに聞いたことがある。
お年よりは土地の権利関係の複雑さと共に、「皆が利用しているから」という理由を話された。路地は多くの目に見えない人々の配慮によって支えられている。
したがって、ここで路地の最も路地たるゆえんをまとめると、次のようになると思う。
「路地とは町中で人々の共同生活の必要から、自発的、自然的に生み出され、人々が歩いて通いあうためにつくられた道である」
苔むした路地と塀の無い家
(2) 市川市の路地の成り立ち
にここで私がいう路地とは、車の通れない、人が歩くことだけができる狭い道をさしている。しかし狭いといっても山道ではなく、両側が人家に囲まれている町中の道をさす。戦前はそのような道が町のいたるところにあったが、自動車の普及などの生活上の変化(合理化?)によって次第に少なくなってしまった。
したがってそのような路地が生まれた背景には、自動車が日常の暮らしの庭先にはあまり入り込んでいなかった戦前や戦後まもなくの時期で、人家が軒を接し、密集して建てられた地域、ということがあげられる。市川の最近の歴史をながめると、まさにこの地がそのようの条件にピッタリとあてはまることがわかる。
1) 大正8年(1919)の市川市 2) 昭和7年(1932)の市川市
市川市の市制施行は昭和9年(1934)であり、この頃までにほぼ現在の市川市の市としての基礎ができたと考えられる。
1)の地図は大正8年頃の市川近辺で国府台付近の軍用施設の他は、千葉街道そいに人家が点々と連なっている程度である。
2)しかし13年後の昭和7年には現在の市川、真間、菅野あたりを中心に市街地が広がっているのがわかる(特に国府台よりの千葉街道と京成線の間の地域)。
この急激な市街地化は大正12年の関東大震災による都民の郊外への移住、特に被害の多かった江東地区の人々が川向うの市川の地に移り住んだことによるところが大きいと思われる。
すなわち、現在の市川、真間などの地域の路地はこの大正末から昭和初期にかけて生まれ、その当時の生活のなごりを今に伝えている風景である、ということができる。
* 地図は市立市川歴史博物館発行「市川市が誕生したころ」による
(3) 土管を積み上げた煙突の話
市川四丁目の今は休業してしまった常盤湯の建物を初めて見たとき、その土管を積み上げた煙突の迫力に私は圧倒されてしまった。しかしその後、近くのお風呂屋さんを注意して眺めると、同じような土管造りの煙突がさらに2箇所で見つかった(他の1軒は鉄筋コンクリート)。
最初私はこの煙突を、ずいぶんと古めかしい煙突だと思った。しかし大正湯のご主人の話をきいて、私は土管式煙突を改めて見直すようになった。
市川二の朝日湯(土管と鉄塔支持)、その頂と下部は複雑でものものしい。
市川二の大正湯の建物と土管式煙突(直径一尺五寸)、その基部は意外とコンパクト
市川二丁目の大正湯では近くで土管式煙突を見ることができた。仔細に比較すると土管式煙突もその支え方によっていくらかの違いがある。前に触れた常盤湯や朝日湯では鉄塔を周りに組んで支えているが、大正湯では土管の周りを鉄骨で覆い、倒れないように全体をステンレスのワイヤーで支えている。
一見すると、土管式煙突はスマートな鉄筋コンクリートのものに比べて、旧式でいかにも頼りげない印象を受ける。
私も最初は、この煙突を見た時、まだ技術が未熟な時代のなごりのように思っていた。
しかし、たまたま大正湯のご主人のお話を聞いて、実は土管が高温や雨にたえずさらされている煙突の過酷な環境にもっとも耐える材料であることを知った。
たとえば鉄筋コンクリートは5年くらいで内部のコンクリートがはがれ、鉄筋がむき出しになると急激に弱くなってしまう。これに対して土管はもともと高温で焼かれて造られているため、熱にさらされることによってますます硬く、丈夫になる。大正湯では50年あまり前から今の煙突を使っているとのことであった。なお常盤湯の煙突の直径は一尺(約30センチ)で大正湯の煙突より細い、というのは意外であった。
私は改めて、先人の知恵を思いながら土管式煙突の堂々たる姿を見上げた。
最近は見かけなくなった土管式煙突ですが、東京都墨田区(左)と江戸川区のお豆腐屋さんでかわいらしい煙突を見つけました